2005年4月25日におきた福知山線脱線事故の電車に通勤の為3両目に乗車。
3両目は、進行方向と前後が逆になる。

進行方向右側に立って、つり革をもち一度目の大きな揺れがきて手がつり革から離れる。持ちなおしたところすぐ更に激しい揺れがきて肩を思いっきり後ろにひっぱられるような形で記憶がなくなる。

目が覚めると上下左右に人が折り重なり(サンドイッチ状態)圧迫され息苦しい。

響き渡る悲鳴や叫び声、顔に滴り落ちてくる血でパニックになる。

息がじょじょに出来なくなり「もうダメだ・・」と意識が遠のいていった頃に救助がきた。上の人から順に外に出される。窓は割れていてドアはこじ開けられて横向けで出る感じで手を差し出され外に出た。

後でわかったのは3両目の後ろにいたのに脱線した際に一番前まで飛ばされていた。一時記憶がなくなったのはその衝撃で頭を打ったからなのだろうか。

-3/4追記↓-

外に出てまず空を見た。ヘリコプターが数機飛んでいるのが目に入った。

頭がボーとしている。車両からちょっと離れたところで立ちつくす。

目の前の惨状にまだ何がおきたのか混乱している。後ろを振り向くと、まだ救出作業が行われ私もドアがもう少し開くようにと引っ張ってみたが当たり前ながらびくともしなかった。「危ないから安全な場所へ」とうながされる。

場を離れ会社に電話をしようと離さずにいた鞄に手をやり携帯をとろうと手を伸ばす。ない・・・。思えば携帯は外ポケットに入れていたので、事故の衝撃でどこかに吹っ飛んだのだろう。

見ず知らずの乗客の方に携帯を借り、「事故で少し遅れます」と電話をした。

そして、また歩き出す。つま先に痛みが。ガラスの破片が刺さっていた。片方の靴を私は履いていなかった。靴も車内で脱げたのだろう。

靴や携帯を探していたら、急に体中に痛みがはしり動けなくなりうずくまる。

サラリーマンの方が声をかけてくれて少し離れたところまで肩を貸してくれた。

座っていると涙がでてきた。今、この場所で何がどうなっているのか、この惨状は一体何なのか。頭がパニックになりまた歩き始めた。足をひきずりながら泣きながら歩いた。

また別のサラリーマンの方が声をかけてくれても、泣いてるので上手く話せない。体を抱きかかえられ走りながら事故現場から離れたマンションの入り口付近まで運んでくれた。

運んでくれてる最中に見た光景。携帯で写真を撮ったりする野次馬。カメラをまわすマスコミ。「助けてよ。見てないで助けてよ。」心の中で叫んでいた。

 

マンション入り口付近には車内の長いすが外されて並んでいた。そこに座らされ、またサラリーマンは現場に戻っていかれた。お礼も言えないままだった。印象的なのはその方のワイシャツに血がついていたこと。

マンションの住人か、近所の方々かわからないけど、お水とタオルを差し出された。水を飲むと喉がしみた。タオルは他人のであろう血や自分の血を拭いた。

悲鳴が響き渡っていた。その中でも女性の「キャー」と叫ぶ悲鳴は今でも頭から離れてくれず夢にみる。

救急車は足りず、近くの工場の車で数人の方と一緒に病院へ運ばれた。

      

病院に着き担架で院内まで運ばれ順番がくるまで病院の廊下で担架に乗せられた状態で待つ。自分が何故ここにいるのか、何で私は生きてるの、体が動かない、何がおきたの。気持ちが交差する。父親がかけつけてくれた瞬間私は安心をしたのか大粒の涙が大量に溢れ、流れた。

幸いにも全身打撲ですんだ。怪我が軽傷な分、自分を恨んだ。人がクッションになったから私は軽傷ですんだんだ。何で私がクッションにならなかったのだろうか。そしたら一人でも助かったのかもしれないのに。

私はまた罪悪感に苛まれた。その日に帰れた私はTVをずっとつけっぱなしでいた。まだ救助活動が続いていたから。

助かってください。お願いします。助けて。ずっと願いながら涙がとまりませんでした。

結果、107名もの命がうばわれた。生きていることが不思議なくらい普通に呼吸をしている私は何度も「死にたい」と口にしていた。「何で私は生き残ったの何で私じゃなかったの」何度も何度も嗚咽した。

生き残ったことが苦しい。事故と向き合っていくことができない。どうやって生きていったらいいのかわからない。

事故後ずっと家にひきこもっていた。気分転換にと友人が外に連れ出してくれる時は、まだ松葉杖or車椅子が必要だった。

それからも家から出ない日が続き会社にも行けない日々。毎日のように流れてる事故のニュース。泣いてばかりの日々。

事故と向き合えるのは数年かかった。


事故の事を書くのは正直、精神的に参りますが皆様に事故当時のことを知っていただきたいという気持ちがありますので、また追記させていただきます。